ちゃんとした夫婦

結婚して2年経って夫婦二人暮らし。両親が何か言いたげなのを無視して、でも何を言いたいかは完全に理解して、我々夫婦はそれなりに明るく楽しくやってきた。

決して若くない年齢で結婚したにもかかわらず、新婚当初はほとんどお互い貯金ゼロだった。なのにそこそこの規模で結婚式を挙げ、しかもちゃっかり新婚旅行でハワイにまで行った。やりたいことはとことんやって、ただでさえ無いお金が無いのに、この金欠というピンチも、行けるところまで行ってみようぜと、変に高まってしまったテンションで乗り越えた。(もちろん両家の親からはかなり援助してもらった。我々は二人とも、親の脛は骨になるまでかじるスタンスなのだ)

お金はないけど明るく楽しく過ごして、それから2年。なんとなく貯金もたまってきた。夫婦生活もある。じゃあそろそろなんじゃないのか、という話だ。両親が言いたいことは。

 
姪も甥も、友達の子どもたちももちろんかわいい。特に新生児ってのはすごい。
ついこの間、親友が出産した。退院したばかりだというのに、お祝いを贈りたいと言ったら、どうせだったら会いに来てよと言ってくれた。いやいや、ボロボロなんじゃないの?と遠慮したところ、「平気!体はボロボロだけど!それだけ!」とパワフルな返事が返ってきた。やっぱりボロボロなんじゃないか。でもそう言ってくれたわけだし、せっかくだからと電車に乗って会いに行った。ちょっとだけ顔を出してすぐに帰ろうと思った。
生まれたての子を腕に抱かせてもらうと、熱い水枕みたいだ。プルプルしてパツパツで、動くし、ちっちゃい。爪もある。生きてるんだ、と思う。偏差値の低い感想だけど、本当にそうなのだ。生きている。
新生児を抱かせてもらった腕に、その余韻と感動が残った。落としそうで怖くなり、さっさと母である親友に赤ちゃんを返した。
親友は思ったよりは元気そうだったけれど、やっぱり時折つらそうだったから、長居はせずに帰ることにした。驚いたことに、帰宅した後も腕には赤ちゃんの重量と熱がかすかに残っていた。
 
彼を夫と呼ぶのはなんだか照れる。というか2年も経つというのに、まだ私には夫というより彼の方がしっくりくる。お互い大人なカップルというにはほど遠い関係性で、きょうだいというよりかは、小学生の仲良しの男子と女子みたいだなと思う。ふざけあって、くだらないことで一生懸命言い合って、最後はげらげら笑って好きなものを食べて、やりたくない家事は押し付けあう。ゲームでも服でも、ほしいものはついうっかり生活費を削って買ってしまう。簡単な計算にも関わらず、今月それを買ったら次の給料日まで相当きつくなるということも考えず買ってしまう。そしてひどいときは、本気でもやしばっかり食べている。
そんな子どもみたいなことばかりやっていても、やっぱり我々はれっきとした成人で、夫婦だからちゃんとやることはやる。そしてちゃんと避妊をする。どちらが言うでもなく、する。我々がちゃんとしているのはそれくらいだ。
 
彼が想像する未来には、男の子と女の子のきょうだいが、私との間にいるらしい。休日には一緒に出掛けて、レジャーシートをしいてお弁当を食べるらしい。時々旅行に行って、いろんなことがしたい、らしい。それを聞いたとき、それいいね、とちゃんと明るく相槌を打てていただろうか当時の私。彼の夢に水を差すような、彼を不安にさせるような表情や声になっていなかっただろうか。これ以来、こういう話は一度もしていない。
 
子どもが嫌いなわけでも、生理不順で健康に気になる点があるということでもない。子どもははっきり言って好きではないし、スーパーでキンキンした声を上げる子どもに遭遇すると親御さんを不憫に思うが、それでも同じ空間にいるだけで消耗している自分がいる。だけどきっと自分の子供なら違うんじゃないかしら、なんて淡い期待が無いわけではない。生理もすこぶる順調で、生理痛はあるけど別に普段の生活が送れないほどではない。きっとすぐに妊娠できるんじゃないかと勝手に思っている。多分。あと何年かは。きっと。
それより親としての責任感とか、それからの生活に思いを馳せて落ち込むことがある。貯金がたまってきたとは言っても微々たるものである。同世代より長めに好き勝手に生きてきたツケが回ってきている。そうとしか感じられない。それは私よりも彼の方が改善されていなくて、いまだに彼のお金の使い方にひやひやすることがある。給料よりもカードの請求額の方が多いことだって一度や二度ではなくて、いまのところちゃんと返してもらってはいるが、私がお金を貸すこともある。
そんな調子で子どもって。子ども一人を育てるのにどれくらいお金がかかるのか計算して見せたら、やっぱ二人で仲良くやっていこう、とか言い出すかもしれない。それとも子どもが生まれれば変わるものなのか。いやいや、三つ子の魂百までと言うではないか。彼の両親に文句でも言ってやりたくなる。どうなってるんですか息子さんの金銭感覚は、と。
 
久しぶりに彼と一緒に出掛けた。天気がいい休日の大きい公園。レジャーシートを持ってこなかったので、適当に空いていたベンチの土を払って座った。自販機で買ったただの緑茶が冷たくておいしい。小学生が大きい声で笑いながら走り回っていた。何が面白いのか全くわからないが、楽しそうなので何よりだ。
我々が座っているそばに、ベビーカーを押した私と同世代くらいの女性が腰かけた。今はバギーとかいうのだっけか。子育てが自分に全く関係ないものだからよくわからないが、健康そうな赤ちゃんが乗っていた。いったい生まれてどれくらいなのだろうか。それも全くわからない。まあどうでもいい。関係のないことなのだ。
彼も赤ちゃんを見ていた。そして私の視線に気が付いて、すぐ目をはずして全然関係の無い話をしてきた。彼のその態度が気になったが、その全然関係無い話を聞きながら、たまにはこういう休日も悪くないもんだと感じていた。低コストの割に充実している。日差しは暖かく優しかったが、しばらくするとじりじりと暑くなってきたので、来た道を戻るかたちで帰ることにした。いつの間にか赤ちゃんとその母親もいなくなっていた。
 
 
彼が私の前を歩く。ねぇ。ちょっと歩くの早くない?ちょっと待ってよ、と声を掛けたら彼が振り返って唐突に言った。
 
「だってお前、子どもほしくないんだろ。産んでほしいだなんて強要できないし」
ぎょっとして、目が覚めた。ひどい寝汗だ。なんちゅー夢落ちだ。
隣を見ると、彼がお行儀よく布団にくるまってスースー寝息を立てている。
昨晩は彼から誘ってきて、いつもと同じ始まり方で抱き合って、終わったらちゃんと服を着て、ちゃんとおやすみーと言い合って寝た。今回もちゃんと避妊した。
強要できないし、か。だからか、昼間、彼が赤ちゃんを見ていて急に目をそらしたのは。私には彼が焦っていたように見えたのは。
あ。消化器系とは違う細い痛みを腹部に感じる。お腹痛い。生理痛みたい。うそ。予定では来週のはず。彼を起こさないようにゆっくり起きて、トイレに入る。やっぱり、なんで。生理だった。
なんでよ。結婚して2年も経つのに独身時代の金銭感覚が抜けないようなあんたが。強要できないからって。私と子どもの話題にならないようにしてるのなんてバレバレなんだよ。痛い。お腹。私だけのせいなのか。ばか。あんただって大概じゃんか。ばかぁ。
 
「大丈夫?」と、トイレのドアをノックして、彼が声をかけてきた。「大丈夫じゃない」「まじか」「まじ」「下痢?」「生理」「ああ」
トイレから出たら、リビングで彼がテレビをつけて待っていた。大丈夫か、ともう一度聞かれた。痛いからイブ飲んで寝ると言うと、そうかーと言った。薬を飲んで彼の隣に座ると、私のお腹に手を乗せて温め始めた。その手がじんわり温かくてなぜか泣けてきた。ばれないように鼻をすすったら彼が風邪?と聞いてきた。ばか。
「ねえ」「何」「子どもほしい」「まじ」「かも」「かもって」「そんな感じ。今」「そっか」
そっか、じゃなくて。もっと安心させてくれるような言葉が欲しかったが、仕方がない。今はただ、お腹の上の手から感じる温かさが心地いい。